すばらしい先輩たち 会津人のほこり(第2集) -019/203page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

若松での血脇先生の言葉「東京にきたら、たずねてきなきい。」を、たよりに血脇先生をたずね、やっと高山歯科医学院(たかやましかいがくいん)の小使(こづかい)の職につくことができました。

清作は、朝早くから働き、ひまをみて勉強しました。また、少ない収入(しゅうにゅう)から、月謝(しゃ)を払(はら)い、ドイツ語の勉強にも通いました。

こうして、六ヵ月も過ぎ、後期の試験がせまってきました。後期の試験を受けるには、済生学舎(さいせいがくしゃ)で勉強しなければなりません。しかし、月謝と下宿代で、月十五円もかかります。これも、血脇先生と相談して、学費(がくひ)を出してもらい、勉強を続けました。

後期試験には八十人の人が受験し、合格者は、たった四人でした。清作は、二十一歳でりっぱに医者になる資格を独カ(どくりょく)でとったのです。

血脇先生は、清作に家に帰り、医者の開業をすすめましたが、清作は帰りません。清作には、別の新しい目的が生まれていました。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は会津若松市教育委員会に帰属します。
会津若松市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。