北会津村村勢要覧 -028/040page

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郷土のあゆみ1−ゆかりを訪ねて

400〜700 古墳時代 ほたて貝式の田村山古墳築く。

今から60年ほど前、糠塚山と呼ばれた高さ3mほどの小山から、半円をつないだ模様を浮彫りにした古代の鏡や、首飾りのガラス玉などが発掘され、長さ20mほどの小さな「ほたて貝式前方後円墳」であることが判明。稲作がくらしの中心となって定住し、豪族が誕生した古墳時代前期の遺構で、この内行花文鏡は、当時では東北初の出土となる。

701 大宝1年 「会津」の地名発祥。

全国を鎮めるため派遣された神々が出逢ったのに始る「相津」の地名を、古代国家の朝廷が定めた律令制により「会津」と改める。「相津」の名は古事記の四道将軍伝説にくわしい。

806 大同1年 磐梯山大爆発。

磐梯明神の投げた石つぶを祀った伝説が礫宮の起こりという。当時の様 子は、火山活動の擬人化である民話「手長足長」に物語られている。この 頃は寺社領が混在し、のち磐梯山麓の恵日寺18万石領となる。

1329 元徳1年 会津四天の宿老が築城。

中世会津の領主葦名氏四天の宿老・禄高5千石の武将富田 氏が会津西12村(黒川城の西側)を管轄し、下荒井地区に広 大な館を築く。宮ノ下の八幡神社や下荒井観音堂も、この 頃に始るという。小松弾正包家の館など、北会津村一帯に は15を数える館跡、50余りの社寺の森が点在する。

1536 天文5年 大洪水で大川誕生。

幾度もの変遷ののち、1419年(応永26)の大洪水で、 鶴沼川(大川のこと)の流賂が北会津村地域の中州の東 側から西側へ変わるが、1536年(天文5)の大洪水で河 道が東側へ戻り、現在のように阿賀川すじに固定。
1921年(大正10)県の阿賀川改修計画が内務省直轄 となり、盆地最上流部の除石作業が始ってこの大川は阿 賀川と公称することになる。

1616 元和2年 銀山街道の宿駅整備。

1588年(永禄!)軽井沢銀山発見。領主蒲生氏時代に若松 と結ぶ街道が整備されて鉱石を積んだ荷馬で賑わい、下荒井 に宿駅となる街村を形成。1920年(大正9)街道大改修。
会津西街道の玄関口の舶渡し場・上米塚に定めができ、制札 が掲げられたのが1680年(寛文10)。渡船ひとり4文、洪水のと きは8文。荷駄6文、洪水12文。渇水時の徒渉は無料。

1620〜40 寛永年間 新田村続々誕生。

1624年(寛永!)の十二所新田、宮袋新田など、西側の 広大な河道跡が土砂で埋まって、開墾による新田村の開発が 奨励される。「新田」村は、以後20年の間に誕生する。

1788 天明8年 会津領の郡役所設置。

天明の大飢饉後の農村再興のため、4郡役所と14代官所を設けて支配を強化。領内745 村のうち会津盆地西部236村7万石を管轄する郡役所が中荒井組下荒井村に置かれる。

1868 慶応4年 明治維新の小松彼岸獅子秘話。

東日本の民俗の王者とされる三匹獅子舞。のどかな囃子の音色に抱かれて彼岸の供養に村里を舞い巡る獅子舞は、会津の春の風物詩。なかでも、小松の獅子頭は、将軍徳川家の葵の紋所ゆかりの会津藩主の家紋を掲げており、明治維新の会津戦争の最期を告げる籠城戦の秘話が語り継がれている。前線から鶴ヶ城へ引き揚げる会津兵士が小松の村人の協力を得て民俗・彼岸獅子舞に偽装し、包囲された市中を威風堂々の行進で何事かとあぜんとする寄合い世帯の敵兵をあざむき見事に突破し帰城、のちに感激した藩主は獅子頭に御紋を掲げることを許して村人をねぎらったという。

内行花文鏡

田村山古墳

出土した内行花文鏡は、中国の古代王朝「漢」期に日本列島へ移入した銅鏡。日本では弥生時代の遺品で、次の古墳時代の遺構からも発掘されています。県指定文化財。

田村山古墳

寺堀の毘沙門天

御尊体3尺3寸。寄木造りに 布張り。極彩色に金箔をお いてあります。洪水のとき 湧水地の深みに流れついた と伝えられる村文化財です。

寺堀の毘沙門天

小松彼岸獅子

徳川御三家に次ぐ江戸幕府譜代の大名である 会津領主松平家の三つ葉葵の御紋を頂いてい ます。村文化財第1号。

小松彼岸獅子


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