北会津村村勢要覧 -029/040page

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歴史を愛する。

1879 明治12年 北会津の名称誕生。

江戸時代の藩体制崩壊後の区制から、郡村が復活。10郷からなる会津郡のうち、会津盆地部分の黒川郷を北会津郡、 田島郷を中心とする9郷を南会津郡と称して分割。明治維新の頃の会津郷284村のうち、現在の「北会津」村に参画してい るのは38村。北会津郡の他の村々は会津若松市に合併し、北会津村は「一郡一村」の珍しい自治体となっている。

1889 明治22年 荒井・館ノ内・川南の3村誕生。

磐梯山が爆発した1888年(明治21)の町村制公布により、自然発生的集落単位の町村を300〜500戸を基準に合併。すでに1875年(明治8)大字制施行により、中荒井村、二日町村、東麻生村の3村で伊和保村と名乗るなど、約20村に集約されていた。1953年(昭和28)荒井村と館ノ内村が合併し、荒館村誕生。

1908 明治41年 若松連隊の食料基地に。

「会津の平坦地は米穀その他の物産に富み、古くから用兵の地‥」と歩兵の若松 連隊を鶴ヶ城前に誘致。若松城下の「さえんば」以来400年余の野菜やくだものづ くりのノウハウを発揮し、兵営の食糧を供給。

1908 大正3年 蟹川に固定橋架ける。

若松と結ぶ渡船場付近の木造で、すでに1903年(明治36) 高田橋完成。コンクリート橋に架け替えたのは、高田橋が 1931年(昭和6)、蟹川橋1959年(昭和34)。

1926 大正15年 只見線線開通。

会津本郷駅開設。すでに1889年(明治32)郡山〜若 松間鉄道開通。

1941〜45 昭和16〜20年 悲惨な太平洋戦争。

1941年(昭和16)太平洋戦争勃発。福島県から約17 万人の将兵が動員され、6万7544人が戦没。県民29人に 1人が死亡。北会津村内の英霊は、330余柱。

1955 昭和30年 宮川新水路開削。

阿賀川より水位の低い旧河道の宮川(鶴沼川)すじは支流が 多く、増水による堤防決壊、逆流による田畑の冠水をくりかえ す。この状況を解消する約3千mの新水路は、1933年(昭和8) 着工。太平洋戦争で中断し、完成まで20年余を費やす。阿賀川の 堤防は、水路を拓いた約30町歩の田地掘削の残土で築いたもの。

下荒井の観音堂

北会津村には、会津三十三観 音霊場の12番田村山、13番 館、14番下荒井の3つの札所 があります。その森には、会 津路の素朴な民俗と武士の世 の昔語りが立ち込めています。 下荒井観音堂のみごとな彫刻 は、村文化財。

下荒井の観音堂

両堂不動堂

成田市、新発田市菅谷とともに、日本三所不動 の1つとされ、縁日は9月3日。かつて、民謡・ 会津磐梯山の元唄である玄如節で踊り明かした 会津の交流拠点。お籠り堂は村文化財。

両堂不動堂


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