北会津村村勢要覧 -030/040page

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郷土のあゆみ2−新世紀へ向かって

1956 昭和31年 北会津村誕生。

 1889年(明治22)自 治体規模を300〜500 戸として県下1730町村 を413に減らす。
 1956年(昭和31)2回 目の町村合併で、県下 379市町村が123に減 る。人口8000人規模、 新制中学校を独立して 維持管理することが基 準。現在90市町村。
 5月1日、荒館村と川 南村が合併し新村「北会 津村」発足。5月、初代 村長に牧原源一郎旧荒 館村長を公選。初代議 員31名。12月の選挙で 22名。現在16名。庁舎 は旧荒館村役場に置き、 1959年(昭和34)中荒 井に新築。荒館村とは、 荒井村と館ノ内村が 1954年(昭和29)合併 した村のこと。

昭和31年鶴沼川の堤防決壊のよる洪水。
昭和31年鶴沼川の堤防決壊のよる洪水。

1961 昭和36年 全国初の全村圃場整備推進。

この年、農業基本法成立。貿易自由化の前に、 主産地形成、規模拡大や機械化等による農業構 造改善、工業の生産性にも追い付こうとした。
 「新しい村づくり」の基本構想は1、阿賀川の 渇水。宮川の洪水。この水との戦いから脱却し よう。2、川南、館ノ内、荒井の旧三力村を結ぶ 幹線道路を創ろう。3、耕地率を高めながら、純 農村の構造を抜本的に整備し直そう。
 これを実現する全国初の全村圃場整備事業は 1963年(昭和38)着工。村土を南北に貫 く幹線道路を創出し、沿線に公共施設を配置し て新しい村の骨格を創ることに始り、22年の 歳月と43億円の巨費を投じて、1984年(昭 和59)完了。耕地率は64%から70%へ。

1967 昭和42年 北会津中学校完成。


昭和42年完成した中学校とマンモス田植え。

1970 昭和45年 水稲の生産調整始まる。

全村圃場整備事業によって村の土地利用は、田39.4%→57.6%、畑23.8%→9.5%となり、水田営農型化。
 その事業中、1970年(昭和45)の水稲一割減反に始る長 期の生産調整があり、村は状況を逆手にとった複合化を推進する。 北会津村の現風景である水田地帯の施設園芸団地はこうして誕生。
 幹線道路の県道会津坂 下本郷線沿いに、新し い村・北会津のシンボ ル施設が次々と実現。今 日の村の骨格をなす。
1959年(昭和34) 村役場を中荒井に新築。*蟹川穂も永久橋に。
1962年(昭和37)*組合員1613のマンモス北会津村農協誕生。
1965年(昭和40)*農耕トラクタ一登場。
1966年(昭和41)モダンな統合中学校、全国13の農協カントリーエレベータ建設。
1969年(昭和44)*コンバイン登場。

1975 昭和50年 農村総合整備モデル事業着手。

1975〜87年(昭和50〜62)会津地方初の取組み。
 おもな事業は、憩い 話合いの場として、農 村環境改善センター(大 研修室・視聴覚室・営農 相談室・全天候型のテ ニスコートとバレーコー トなど)と農村公園10 カ所を整備。集落内道 路施設の舗装、集落排 水施設の完備、食生活・ 疲労回復体操・農薬の安 全使用・家庭内外環境整 備・無理無駄のない暮 らし・話合いなど生活 改善6課題の推進など。

昭和50年 農村総合モデル事業着手。
昭和50年 農村総合モデル事業着手。

昭和55年 村環境改善センター
昭和55年 村環境改善センター

議会と行政組織 夢プラン21の推進役。

 全国に数々の実践例を発信しながら新しい村づくりの先導役を担い続けてきた北会津村 の議会は、村民の代表である16名の議員がさらに住みよい郷土づくりをめざし、先進の地域経営情報の受発信など果敢な議会活動を展開しております。
 第三次振興計画に基づく村行政の推進にあたっては、職員の条例定数99のなかで行政需要の多様化に柔軟に対応しながら住民サービスにつとめ、合理的な運営をはかります。
 われら村民の思いはひとつ、村長が提唱する「生きがいと感動に出会える村」づくりに向けた村民ぐるみの実践を通して展望する、郷土・北会津村のたくましく限りなき発展です。

村 長/庄條 徳一
村 長/庄條 徳一

助 役/松田 秀雄
助 役/松田 秀雄

収人役/水上 洋一
収人役/水上 洋一

教育長/中山雄助
教育長/中山 雄助

議 長/高橋 誠
議 長/高橋 誠

副議長/猪俣 准一
副議長/猪俣 准一

議会


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