北会津村の文化財第27集 -004/039page

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会津田村山古墳実測図
会津田村山古墳実測図

田村山古墳出土品 (内行花文鏡)
田村山古墳出土品 (内行花文鏡)

◇ 関連事項

 崇神天皇の10年の頃、四道将軍の大彦命が高志道(こしの)を武渟川別(たけぬなかわわけ)命が東方 十二道を通って父子が相津で遇ったと伝えられている(古事記)。その 後大宝元年(701) に相津が会津に改められたといわれている。また 大同元年(806) に磐梯山が噴火し、猪苗代湖が生じたと伝えられて いる。その為大同二年(807)勅令により、災異鎮護のため空海に恵 日寺を創建させた(会津由事雑考)。その後大同四年(809)頃から 空海に代わって徳一が恵日寺に入り(福島県史)、仏教を広く普及し、 会津四郡の地の大半を寺領とし、所謂いなばつ政治といわれる政治が行 われた。
 康保元年(964)真言僧久光坊は石原村に石沢山薬師寺を建てたと 伝えられている。
 養和元年(1181)会津恵日寺の衆徒頭乗丹坊が僧兵を率いて越後 の城長茂に加勢し、長野県横田河原で木曽義仲と戦って敗死した。これ 以後、会津は平泉の藤原氏の支配下に入る。しかし源頼朝が文治五年 (1189) に平泉の藤原氏を滅ぼすと、会津は鎌倉幕府の支配下に入っ た。

中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国時代)

◇関連事項

 鎌倉時代に入り、源頼朝は会津四郡を佐原十郎左衛門義連に、大沼郡 のうち伊北郷を山内秀基に、会津郡のうち南山を長沼宗政に、伊南郷を 河原田盛光に与える。その後佐原義連が始めてこの国に下向の時、中荒 井村の御膳河原で幕をはり、旗を立て昼餉をしたところが旗明神の旧跡 であるといい伝えられている。正和二年(1313) に下小松村(小松 村) の感応神社が恵心源信によって創建された。

1 下荒井城築城

 葦名盛宗の家臣で、四天の宿老の一人である富田監物祐義は嘉暦二年 (1327) に荒井郷(大沼郡西十二か村) 五千石を賜り、元徳元年 (1329)下荒井の地(現在の多目的農村広場) に城を築いた。その 際耶麻郡叶荘より八幡宮を下荒井と下荒田(宮ノ下村) に共に移した。 また、城の東部一角に康寧山宝寿禅寺を建立した。なお城は天正17年 (1589)伊達政宗の兵火により焼失した。次の頁の図は下荒井城の 復元図である。

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