北会津村の文化財第27集 -010/039page

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ら、この白鬚の水まで117年の間は、応永の大洪水で南会津地方より 流れてきて、本郷の岩崎山の麓から西に、橋瓜村よりは西北に、更に安 田村から北流して坂下村を経て日橋川と合流し阿賀川となっていた。と ころがこの白鬚の水によって、応永二十六年以前の昔の河道に戻り、本 郷村より北に流れ、蟹川村、佐野村を通る現在の大川(阿賀川) となっ たといわれている。流路の変更によって、岩崎山の麓から橋瓜村の間の 旧河川敷は陸地と変わり、安田村から坂下村までは川幅が狭くなって現 在の鶴沼川となった。陸地となったところはもとより、川幅の狭くなっ た流域など旧河川敷には沢山の新田が開発され、多くの集落ができた。
 左図は寛文十二年の会津旧事雑考にある鶴沼下流決為大川の図である。

鶴沼下流決為大川之図
鶴沼下流決為大川之図

12 思鑿(おもい)堀(岩崎堰) の開削

 前項に述べた白鬚水は鶴沼川(大川) の流路が変更するほどの大洪水 なので、橋瓜組や中荒井組の大半の堰はもとより、殆んどの堤や田圃が 破壊され、潅漑用水はもとより生活用水まで差し支えるようになった。
 当時、この地方の用水として、一部鶴沼堰を利用するほかは、湧出す る清水や大小の多くの堤の水を堰で通水して使用していた。それが白鬚 水の大洪水のため破壊された。そのため田畑の耕作も困難となり、農民 に離農者がでるほど難渋したので、葦名家家臣小森備後守が「本郷村岩 崎の麓より取水して、それを潅漑用水としたら」と具申して承認され、 次の頁の文書に記してあるように、弘治年(1555〜1558)中に 工事を始め、完成したのが天正年(1573〜1592)中の始めで、 およそ二十数年の大事業であった。

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