北会津村の文化財第27集 -012/039page

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13 軽井沢銀山再開により下荒井村に銀山街道の宿場誕生

 軽井沢銀山は、永禄元年(1558)松本左文治という者が発見した といわれている。軽井沢銀山への道は、東西南北と早くから開かれてい たが、なかでも城下から銀山をつなぐ最短距離として、使用された旧道 が今の県道二岐線でその面影を残している。城下から西に向かって行く と今の会津若松市御旗町の通りは、昔は中央に堀割がなされ、人馬は両 側を歩いていたという。柳原・鍛治屋町を経て大川へ着く。この川を渡 り蟹川を通り川崎の南端を通って下荒井村へ入る。下荒井は街道に沿っ て両側に家が並び、今でもかつての宿場街そのままの面影をとどめてい る。元の南北に走った道路の集落を元町といって、今もその名称ととも に残っているが、銀山街道の整備によって十字路となり村は東西に伸び た。村中に一本の堀割がなされ、人馬はその両側を歩いた。堀割が埋め られ両側が溝となったのは明治になってからである。寛文五年の書上げ には、家91軒、かまど118と記されてあり、旅篭屋・掛茶屋・銭 湯屋・質屋・麹屋などもあって、街道一の宿場として繁昌した。下荒井 を経て本田を通り銀山橋を渡り街道第二の宿駅である佐賀瀬川を通り、 途中松坂・二岐を経れば山はいよいよ深く、山あいを縫った道路を進み 市野を抜ければ軽井沢に着く、軽井沢の集落を抜け切って塩野に向う手 前を左に折れれば山坂にさしかかる。その山坂を登りくねって出れば、 視界が広がり、かつて千軒近くあった家や鉱夫とその家族が住んだ鉱山 の町銀山へ到着する。
 正保元年(1644)初代藩主保科正之は銀山の再開発をはじめた。 この銀山が最も活況を呈したのは、享保年(1716〜1725)間の 三代藩主松平正容の頃だったといわれている。

◇ 関連事項

 今でも南北朝時代の貞和四年(1348)頃、騎馬武者が百騎沼で溺死したという百騎沼の由来が伝えられている。また貞和五年(1349) に耶麻郡小松原(新宮村) で葦名直盛が新宮明継と争ったといわれてい る。その後天正十七年(1589)葦名二十代の義広が伊達政宗の侵攻 を受け、摺上原の合戦で敗れ、葦名氏は滅亡した。その際下荒井の城は もとより蓮華寺やその末寺田村山の福聚山養泉寺や館の福聚山観音寺も 伊達政宗の兵火にかかり焼失した。

近世(江戸時代)

◇ 関連事項

 葦名氏が滅亡し、伊達政宗が会津を占領したが、豊臣秀吉の怒りに触 れた。翌天正十八年(1590)豊臣秀吉は会津の黒川(会津若松市) に到着し、豊臣秀次と字喜多秀家に奥羽の検地を行わせる。同時に会津 を伊勢松坂の蒲生氏郷に与える。さらに文禄三年(1593)蒲生氏郷 は領内の総検地を行い九十二万石と算定する。
 豊臣秀吉は、慶長三年(1598)蒲生秀行を宇都宮十八万石に、上 杉景勝を会津百二十万石に移封する。慶長五年(1600)関が原の戦 いで東軍が大勝、徳川家康は上杉景勝を米沢三十万石に移封、蒲生秀行 を再び会津六十万石の領主とする。慶長十六年(1611)会津に大地 震があって、阿賀川下流の山崎で地滑りが起り、そのため山崎湖ができ、 寛永二十年(1643)まで32年間湖水となる。寛永四年(1627)領主蒲生忠郷没により、幕府は無嗣により六十万石の封を没収する。

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