北会津村の文化財第27集 -013/039page
幕府は加藤嘉明を伊予国松山二十万石より会津四十万石の領主とする。寛永二十年(1643)領主加藤明成は家中不取締りとして領土を幕府に返上する。幕府は保科正之を会津二十三万石の領主とする。なお幕領南山御蔵入五万五千石を会津藩預り地とする。その後慶安元年(1648)保科正之は領内の総検地を実施、これにより藩の基礎が定まる。なお初めて農民分限帳をつくる。
1 各地に新田開発
応永二十六年(1419) の大洪水やら天文五年(1536) の白鬚水によって、鶴沼川が大きく変貌し、当時の中荒井組や橋瓜組などで、大半の耕地や堰堤などが甚大な被害を受けた。元和六年(1620)藩は漸く新田開発の条目を出した。元和九年(1623) には中荒井組の和泉村・宮野下村・鷺林村・宮袋村に新田宿が建てられ、希望者には入村開拓が許された。また寛永三年(1626) には下小松村に新田宿の定め書が下された。その後上米塚村新田が開かれるなど逐次新田が開発されてきた。
なお「新編会津風土記」 によれば、当時開発された旧鶴沼川流域や陸地化した古河新田といわれる新田郡で、北会津村内のものは左表のとおりである。
時代 新田名 開発年次 蒲生時代
1601〜1627宮袋新田
十二所新田
西後庵新田
西後庵新田村北新田
本多村端村新田
西麻生村端村出新田
上米塚村端村出新田1624〜
〃
〃
〃
1625〜
〃
1626〜加藤時代
1627〜1643大島村端村出新田
下野村端村出新田
佐布川村端村天満新田1628〜
1635〜
1636〜なお下米塚村出新田は1790年から開発された。