北会津村の文化財第27集 -034/039page

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             福西吉左衛門
             稲田数馬之助

 寺院白米山泉現寺は浄土宗若松徒町(かちのまち)可山願成就寺乃末山なり、元禄元 年の建築にして本尊弥陀客殿に安置し奉る。願成就寺は旧耶麻郡五目組 加納荘上三宮村加納山願成寺の移しにて京都智恩院の末山也。

 浄土四流の一多念義の元祖隆寛が願成寺の開基也。隆寛は栗田関白乃 御胤少納言資隆乃三男にして、願成就寺を若松徒町に移したるは、慶長 四年上杉景勝の命に依り、良翁を以て開山とす。寺領百石を賜わる。

 堂宇、玉光堂は奉安置地蔵菩薩の草創は、人皇五十一代平成天皇の御 宇大同年中徳溢大師の御作にて(と云う)御尊体長二尺八寸糟尾宗頤(そうえ)の 守本尊の由え伝う。天正年中葦名盛氏公が本郷村羽黒山(岩崎山) に御 居城の或時、天俄(にわか)に掻(か)き曇(くも)り、閃電轟実(せんでんごうじつ)に凄(すさ)まじき有様となれば、宗頤 其の運気を考え天空を望み、沐浴斎戒(もくよくさいかい)し、荒々しく瑠璃(るり)の壷(つぼ)より薬を捧 げ奉れば神忽然(こつぜん)として現れ、童子と変じて一巻の書を宗頤に授く、宗頤則拝受して之を子孫に伝うとかや。其の後宗頤一度瑠璃の壷を開けば四 方の悪病忽ち去り尽(まま)ぬとかや、是則ち神力の然らしむる処にして寔(おく)う。 尊かりけり次第ならばや、宗頤故郷糟尾村に帰り死後郷人より薬師如来 として祀られ水災難病を救わせ賜うと云う、宗頤此地を去りし後は御堂 も自然と淋しくなり、「天和三年」 (寛永八年) の大洪水に玉光堂押流 され、漸く菩薩の御尊体のみ取揚げ奉り、十王は不残流され賜う。此時 由来の書も流失せし由申伝う。夫れより寛永七年(正徳元年)迄は端村 宗頤町の民家に安置し、正徳元年に至り当村肝煎小池喜惣兵衛義徳と云 う者、泉現寺客殿に移し奉るとかや。其後義徳七代乃裔小池彦次郎(後 喜八郎と改名す)栄詮と云う者、当時の住職善秀和尚と謀り、壇中の褒 善家 宇兵衛、利兵衛 与惣兵衛 彦右衛門等と協力し、村呂乃志を一 にして安永九庚年御堂の再建を泉現寺境内に経営し、地蔵菩薩乃御尊体 を茲に移し奉る。今の御堂は即ち是なり。泉現寺の大門や、塀墻(へいかき)も此時同時に建設したるものにして誠可謂霊場矣

 右は古文書や俚俗の伝承を採りて掲記したる事なれば、或は被是低牾(ていご)するものなりと雖も弁を訂正せば却て其の実を失ふ嫌なき能ざるを以て、 其の伝ふる侭を書き記したる事爾云。
 大正五丙辰七月宇羅盆会にして之を撰す。
       撰者 小池筑後守添貞道拾八代之主 小池徳美
       筆者 撰者之二弟河沼郡千咲之住人 同 道康

 實次
 修理之介と号す武田家滅亡後会津に来たり葦名盛氏に仕え弓大將とな り壱万五阡石を腸ふ、葦名家滅亡後南山楢原郷に蟄居して再奉仕せず同 所にて死す。今楢原郷に小池村と云所を存せしは實次の名跡なり
 大永四年生 天正十六年没  歳六十八

 貞道
 小池修理之介實次の次男として蒲生氏に仕え代官を勤む後に上米塚村 に来たり住す。これ米塚小池家の先祖とす
 天文廿一年甲洲都留郡生れ、慶長四年己亥年九月十三日没 四十八

     葦名盛氏に仕え弓大將        
實利 實次 實道     上米塚小池家の先祖
     仕置奉行 貞道  ―  左京道利
  外池信濃守        
     町検断        
  内池備後守        
             
  女 金上盛備室        

 外池信濃守
 甲州小池郡に住して武田信玄に仕えた小池左近實利の次男武田滅亡後 蒲生氏郷に仕え会津で八千石を賜う。蒲生忠郷之仕え仕置奉行を務めた。


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