北会津村の文化財第27集 -035/039page

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 内池備後守
 甲州小池郡に住して武田信玄に仕えた。小池左近實利の三男武田氏滅 亡後蒲生氏に仕え内池と改める。内池備後はのち姓を再び小池に改め、 会津で町検断を務める

 稲田数馬之助
 氏郷の日野時代蒲生家の家老として政務をとる。元和八年(1622) 町野門守が渡部治郎左衛門と訴訟を起こして辞してからは、稲田は、外 池信濃守 本山豊前守 福西吉左衛門 とともに仕置奉行となる。

 福西吉左衛門
 蒲生忠郷の乳人(めのと)の息子

 洪水と新田開発
 此の村の小池徳実の掲額の文中に、年号について歴史年表にもとづい て考察するに、( ) 内にあらためた、天和年中とあるは、天文とあら ためるとごく自然である。
 天文五年(1536) の白鬚水(しらすげみず)の大洪水で岩崎山の東北の山裾より西へおもむき流れていた大川は陸地化してしまった。その後約百年が過ぎ、 元和七年(1621) 坂下組下金沢新田村に、新田宿が立たのを始め、 続いて翌年、高田組新屋敷新田が開かれ、中荒井組、橋爪組の新田村が 次々と開村された。保科正之公が寛永二十年に会津二十三万石の領主と なり、新田開発がなされ、新田高は、500〜600石余となった。北 会津村の下米塚新田宿が立ち寛成二年(1790)百七拾年もかけ鶴沼 川の旧河川跡(し)敷地(しきち)は開発がなされ、これ以上は耕地化が不可能な原野は旧川南地区には百六十町歩余が残っていた。
 その原野は北会津村の農業構造改善事業によって北会津村には一坪の 原野も無く消えてしまった。
 天和元年(1681)洪水は八月七日に家世實紀に見えるが、主に湯 川と飯寺の土手100間が押切られ、大川の東岸に氾濫して、城下町の 穢多(いた)町、材木町、新町、侍屋敷小路、川原町、柳原などが浸水したとあ り、大川西岸の北会津村沿岸の集落について被害についてはふれられて はいない。
 宝暦六年(1756) の洪水については家世實記によれば、宝暦六年 ではなく宝暦七年五月朔日の洪水となっており四月二十四日以来の大雨 で大洪水、上米塚村は見えないが、下小松村、二日町、西沿岸の村が被 害にあっている。おそらくこの洪水で上米塚村も被害にあっていたと思 われる。このとしに熊野神社の御神体を柏原へ移し奉つる。もとは、柏 原の鎮守は伊勢宮とあるが、本郷町の宗像出雲が司さどっていた。
 神明は、その伊勢神明という意味だろうと思われるが、寄宮、相殿に して、柏原に、上米塚、下米塚、新在家、松野、中新田を併せた六ヶ所 村からいろいろの神が合祀された。この様に近隣の村の鎮守の境内の整っ た所へ相殿併祠などの寄宮をし寛文十二年(1672)に会津神社表を 編した。この頃にも寄宮があったのかも知れない。しかし名目上は相殿 寄宮をしても鎮守神は各村の開発と関係が深く一部は混乱をおこし、古 い空き宮、境内はそのまゝ残しておいて、村人は密(ひそ)かに参っていた様で ある。
 天文の洪水に堂字が流されて十王像が流されてしまったと、古文書に 見える。元は壮宏なる神殿がどこに建立しておったかは不詳であったが、 古老の云い伝えによれば古屋敷に鎮座しておったと云う。上米塚の絵図 には古屋敷と云う地名は見当たらないが、永島清比古の所有の上米塚、 村東(1286番地)宅地495平方米とあり、新しい堤防と旧堤防が 交叉している中に存在しており往古は旧集落が存在していたことがうか がえる。旧大川の中には田畑の字名があり、洪水のあるたびごとに摩滅(まめつ) してしまった。
 又小池伝吉は検断頭をつとめた。慶安二年(1649)保科正之公よ り安永元年(1777)容頌(かたのぶ)公頃まで128年間に家世實紀に見える。


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