北会津の昔ばなしと伝説 -206/238page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 この伝令を受けた山川大蔵の軍は、さっそく、日光街道を戻り、飯寺(にいでら)の西の大川のところまで引き返してきましたが、そのとき、すでに鶴ヶ城は、敵の軍勢に包囲され、味方の兵をひとりも損じることなく、お城に入ることは、不可能な状態でした。

 山川大蔵(やまかわたいぞう)は、馬上より鶴ヶ城を眺(なが)めながら、どうしたものかと考えておりました。そのとき風が吹き、近くにいた馬のたてがみが、吹きあげられ、馬の顔が獅子に見えました。

 山川大蔵(やまかわたいぞう)は、ハタと膝(ひざ)をたたきました。保科正之公(ほしなまさゆきこう)が最上より会津に移封されたとき、勇壮な獅子舞(ししまい)を先頭にして寛永二十年(1643)に会津に入ってきたのが、会津の獅子舞(ししまい)のはじまりであるという言い伝えを思い出し、この近くの小松(こまつ)というところにも獅子舞(ししまい)があったはずだと考えました。そして、

 「この近くの小松(こまつ)に行って、百姓たちを集めて、獅子舞(ししまい)をさせよう。」

 「獅子舞(ししまい)ですか? いかがいたしますのですか。」

 「わしに考えがある。みな、ついてまいれ。」


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は北会津村教育委員会に帰属します。
北会津村教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。