北会津村誌 -020/534pag

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官庁名称としては、会津高田町東縁を流れるのは、下流の青津、宇内間で阿賀川に合流するまで宮川と呼んでいる。

 大川が鶴沼川と呼ばれたのも全域ではなく、羽鳥村よりの名称であるから、湯の上より本郷の岩崎山辺までで近年は湯の上上流を含め、現在の大川筋が下流日橋川に合流するまで、時には合流して只見川とあわさるまでも大川と呼ぼうとしている人があった。現在の官庁名称としては、只見川の合流以下は、古くからの阿賀野川、その上流、もと大川と通称した全地域を阿賀川と呼んでいる。しかし、呼びならした大川のほうが、身近かに感じられる部分では、大川を用いても、広く通じるし、文句のいわれる筋合もないと思う。

 湯川はもと黒川とも呼んだ。黒川は会津若松の旧城下町の古名でもあった。別に会津旧事雑考には岩崎辺の水脈を黒河川と名づけたとある。特に黒河川といい、黒川と区別する文字を用いて、城下町の西縁を流れる大川に付したこともあったのか知れない。また黒川が氾濫して旧鶴沼川、今の大川に合流、さらに宮川の方へ流れたこともあるから、これらの名称の混淆は、事実複合、合流の結果によるものでもあろうかと思われる。現在はこれを湯川の名称で統一しておく。

 さて天文5年6月28日の所謂白鬚の大洪水で、大川が本郷町の東から、西北に氾濫して、安田村付近で宮川に合流したという記録が残っている。しかしこれは天文5年に起った特有な洪水のためではなくて、応永の頃(1400年頃)まで大川は岩崎向羽黒より橋詰村を通って安田村の辺で宮川に合流し、これが会津郡と大沼郡の境界であったようである。これが応永26年(1419)7月の洪水で黒河川も押切って鶴沼川とあわせ、宮川、赤沢川まで合流して氾濫したという記録は、次の洪水災害でも述べるが、黒川ではなくてやはり大川が対角線状に宮川の方へ、旧河道に沿うて奔流したと解してよいであろう。別に湯川が嘗ては、大川まで押切ったこ


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