北会津村誌 -085/534page
いうことは、この発見されるまでは聞かれなかった。その次にくるのが弥生文化といわれるもので、その名称は、東京都の、上野公園の台地と不忍池を隔てた、東 京大学のある弥生が丘より最初発掘されたので、その地名が付され、農耕文化をもった、われわれの祖先がこれ につながるものであろうと考えられているものである。時代を明確にすることは、場所や遺物にもいろいろあっ て、専門家は編年表をつくって時代の考証をしているが、大体は西暦でいう紀元の最初頃であろうといわれてい る。会津地方の、日本文化の開発過程からみて、それよりはやや下る時代と想定して、大体間違いはなかろうと 思われる。その頃既に、盆地底の中州の一部が開拓されて、農耕が行なわれ、人が住みついていたことになるの で、貴重な遺跡である。大要を小滝調査報告書によって述べてみる。
場所は今和泉部落より麻生に向う道路を、南に二九〇メートルほど行った、道路の西側で、字町畑地内、標高 は二〇〇メートルになっている。今和泉は部落の名が示しているように、大川扇状地の末端に近い湧水地帯で、 遺跡地のすぐ西に湧水があり、小川が流れている。旧鶴沼川の氾濫地で、その中州に当る、やや高みの、今和泉 坂場啓次の畠地で、その床上げをした際出土したものである。上には黒褐色又は褐色の土が三〇〜六〇センチかむっており、その下に二〇センチほどの黄褐色の粘質砂層が あるが、遺物は大体その層に含まれていた。特にその集って採集された場所は、東の道端近い、径三メートル以 内くらいの、木炭片の多く散布する、炉のあった跡とみられる周辺で、出土品は、壺形台付・深鉢形・浅鉢形の 土器数種、それに俗にやのね石といっている石鏃・磨石・凹石・磨製石斧などで、精製されたものに、粗製のも のも含み、土器には縄文、刷毛目文などのものがある。
この荒い縄文に篦で描いた沈線文があり、磨消した手法がみられるところから、弥生式でも相当古いもの、弥