北会津村誌 -086/534page
今和泉弥生式土器遺跡略図(小滝利意による) 生式を前期・中期・後期に分けてみると、少なく とも、その中期くらいには含まれるものと考証さ れている。昭和の初め頃まで、大川の中州・川敷に、いく らかの石畑を開墾して、掘立小屋を建てて住まっ ていた人があったのを、覚えている古老は多いと 思う。川岸の老人などのほまち稼ぎ程度のもので あったか、それとも定住場所をもたない乞食に類 する流れ者でもあったのか、よく知らないが、自 分の所有地でないことは確かであるし、洪水の際も、並みの程度なら浸水もしなかったようであるが、流失の危 険はあったから、今和泉の弥生式住居跡なども、その程度のものであったかも知れないと思ってみる。
三、豪 族 の 古 墳
中州の開拓が進み、耕地が拡がり、住みつく人々の数も多くなると、これを統制し、指導する人がでてくる。 これが地方の豪族の発生、生長となってくる。弥生式文化は農耕文化であるから、日本の文化発達の中心とみられる近畿、特に奈良盆地などでは、四世紀末 既に豪族の如きが発生し、一般農民と生活状態の差も大きくなり、それを誇示するために、偉容を撃えた陵墓に 模したものを築造し始めている。これは七世紀末の奈良朝時代にはいると、豪族は地方の首長というよりも、官