北会津村誌 -096/534page

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上荒井の旧館跡の土塁と堀
上荒井の旧館跡の土塁と堀

臣五、〇〇〇石の城主であったことは次項と、下荒井村の項で詳述する。

 下小松には三つの館のあったことが記されているが、「延文の頃(一三 五六〜三六〇)小松弾上包家築けりと云」とあるから、伝承としては、三 十余年下荒井の築城よりは後れているが、やはり葦名に属していたものと 思う。二の丸、三の丸があって、こちらも五、〇〇〇石の領主であったと も伝えるから、城というのに近かったかも知れない。他の一つには天正の 頃(一五七三〜一五九一)松本源兵ヱが住んだとあるから、時代は遥かに 下る。その詳細は小松村の項で述べる。

 現在北会津村からははずれたが、古くから下、中両荒井村と関係の深か った上荒井にも下小松のものより規模のやや大きい、城というにもふさわ しい館があり、葦名の臣荒井万五郎某が住んだとある。

 この三つが中心になり、何れも葦名の臣として地方を護る核となり、そ の下に館を構えた小さい豪族がいて、それは鎌倉の中頃から室町・戦国時代にかけての、村の統治の姿ではなか ったかと思う。葦名時代は長く、佐原十郎義連が文治五年(一一八九)に会津の守護に任じられてから、天正十 八年(一五九〇)伊達政宗の進攻まで約四〇〇年間にわたっている。その間決して平隠ではなく、常に内攻、外 攻もあって、守備態勢ほゆるがせにできなかったようであるから、城および館なども、大きなものは平城の築城 法にのっとり、館にも、近年までその名残りを止めていた館堀で周囲をめぐらした、所謂環濠屋敷が、各集村の 中核をなしていた。盛衰もはげしかったようであるが、多くは世襲で、村の政治、特に徴税、これは主に反別に


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