北会津村誌 -095/534page

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容していたかの事情は明らかでないが、恵日寺にも、高田のお田植祭と同じく、お田植祭の行なわれた証跡があ るから、磐梯山に山の神を祭り、これを季節により下して、田の神として祭り、会津地方の農をもとにする人々 の信仰を集めていたかと思う。

 この支配系統はよくわからないが、康保元年(九六四)北会津村でも石原村に薬師寺を建立したという伝承が 残っており(石原部落の項に詳述)、真渡には永承六年(一〇五一)前九年の役に鎌倉権五郎と弥三郎が落ちて きたと伝え(真渡の項に詳述)、同部落にある輝井の宮は、文治五年(一一八九)当時藤原泰衡に誅された輝井 某を祭ったものともいっている。塔寺八幡宮の天喜五年(一〇九七)の記録には、既に荒田村の名がみえるから 扇状地末端の清水湧出地帯は、古墳時代より、相当な開拓が行なわれていたことを想起することができる。

 大宝元年(七〇一)相津を会津と改め、会津郡の名も既にみえ、延長中(九二三〜三〇)には会津郡より大沼 郡が分れて独立している。北会津村は最初会津郡に含まれ、延長中より徳川期の中頃までも大沼郡に属している ことになる。

 漸く北会津村の開発の黎明が基礎的に固まってきたのは、この頃かと思われる。

第二章 芦名来封より徳川末までの治政

一、館の構築時代

 1 新編会津風土記書上げの城跡と館跡 文化六年(一八〇九)に成った風土記には、現在の北会津村内に一 三の城や館の書上げがある。その一つ下荒井のものだけは城となっている。富田氏とあるだけであるが、葦名の

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