北会津村誌 -098/534page
よる穀納で、その事務にたずさわっていた。これがやがて、各部落の肝煎職などにつながっている。各部落の館については、それぞれの項で述べるが、ここに分布の大要と、文化六年の風土記の館の書上げ一覧 を資料として並べておき、下荒井の築城の経過のみ次項に詳述する。
北会津村旧館跡一覧表
一、中荒井村館跡
村中にあり、東西二十間余、南北一町余、民屋となり、土手、堀の形残れり、何人の任せし処なることを知らず。
一、今和泉村館跡
村北二町四十間にあり、東西三十間余、昔関出雲守某と云着任せし所と云、字を屋敷と称し、井の跡あり、北 の方に五輪壇と称する小荒あり、もとはここに五輪ありしと云、南の方の田に柳館、屋敷前等の字あり。
一、盃館跡
天満宮、村の丑の方二町三十間余にあり、昔、一盃館ありし跡なりと云。
一、荒田村館跡
村東一町三十間にあり、今は畠となり、其形なし、字を館内と云、何人の任せし跡なるや詳ならず。
一、下荒井村城跡
村北にあり、米倉の地即本丸の跡と云、三十間四方計、東西北に土手を築き、堀形共腰を廻る。北方の堀は田 となり、其字を内膳堀と称す。二の丸其三面周り東西二町余、南北五十間、東面は民居となり、其余は田圃を開く、其北に出 丸あり、東西五十間計、南北二十間計皆畠となる。二の丸と出丸との間の田の字又内膳堀と云、此より南の方本町の南端に追 手口の跡あり、すこしき土手のこり、其辺の字を上城口と称う、葦名氏の時其臣富田氏をして守らしめし所と云、何れの頃の 営築と云ことを知らず。
一、真渡村館跡
村中にあり、二十間四方の地を館の内と称す。如何なる人の居りし処と云ことを伝えず。
一、石原村館跡
村中にあり、肝煎の居宅となり、享徳の頃石原刑部信清と云者任せしと云。
一、田村山村館跡
村中にあり、東西二十九間、南北五十間、民居となり字を館の内と称う。何人の居りし所なることを知らずと 云、