北会津村誌 -099/534page

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一、館   村
 昔此地に大なる館あり、其跡に民居を営みし故名けりと云。

一、上荒井村館跡
 村中にあり、本丸跡東西三十間、南北五十間、二之丸跡東西四十二間、南北二十八間、三之九跡東西三十四間  南北三十間、皆土居堀形存せり、天正の頃、葦名の臣荒井万五郎某と云う者居りしと云、或は荒井左京之助と云ものの居とも 云う。今民屋となれり、又本丸より東南に的場の跡あり。

一、下野村館跡
 村中にあり、東西十九間、南北三十三間、天正の頃、葦名氏の臣荒井因幡某と云者居りしと云、今は居屋とな り土居、堀の形存す。

一、下小松村館跡三
一は村中にあり、本丸跡三十間四方、二の丸跡二十八間四方、三の丸跡東西二十六間、南北十六間、延文の頃小松弾正包家築 けりと云、其後平田総石ヱ門(諱を失う)と云もの往し、天正の頃、松本源兵ヱ(諱を伝えず)居しと云伝う。土居堀廻れり
一は村より丑寅の方一町三十間にあり、東西三十間、南北四十六間、今田圃となり土居の形遺れり、何人の任せしにか詳なら ず。
一は村西にあり、一町余四方、土居堀の形遺れり、いつの頃にか佐々木鴨之助某と云うもの往せしとて土人鴨之助館と称う。

   2、下荒井の城跡 規模については新編会津風土記の書上げに詳しく、内膳堀といった堀形や土堤形は、小学 校敷地として整地するまで、いくらか面影を残していた。

 築城したのは葦名盛宗の時代で、その臣、富田の三代祐義が、嘉暦二年(一三二七)荒井郷を賜り、元徳元年 (一三二九)さらに大沼郡西十二ヵ村を賜り、下荒井に築城したということになっている。富田家とは本家は安 積郡富田村にあり、初代は範祐で、恵日寺の荘官であった。安積郡富田村山の井荘(今の郡山市に属する)西大 島、亀田村を領していた。承久四年(一二二二)に耶麻郡叶荘の塩谷・耳沢・八幡・岩崎・上野・仲村などを与 配した。それが三代祐義の代になって、叶荘と大沼郡、今の北会津郡に含む西十二ヵ村を交換させられて、富田・

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