北会津村誌 -132/534page

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第五章 堰 堀 の 開 発

一、旧河跡と堰堀

 応永二十六年(一四一九)頃までは、旧鶴沼川が、本郷町の弁天山東から、その北麓を洗って、本郷町と上荒 井新田の間を通り、会津盆地を対角線に西後庵から大島付近までの間で濁川に合し、大島から麻生新田・天満付 近で宮川に合して北流していたと思われる。約百年程たった天文五年(一五三八)の自鬚洪水で、鶴沼川が北に 決壊して流れたとある。これが現在の大川らしいから、これらの河筋の変遷はあまり古いことではない。しかし この時はじめて旧鶴沼川が北に決して大川になったかは、扇状地の形成から疑わしい。古くは北流したこともあ り、後に西北に、対角線状に流れ、この頃、再び大川筋に放流したのかも知れない。会津旧事雑考などにも黒河 川・佐野川などの一連たるものが、ほぼ現在の大川筋に沿うて流れていたことを示している。

 既に中州の水田開拓は、扇状地の末端付近から始められていたことは、田村山古墳時代などを想定してみても わかる。その頃までの主な灌漑用水は、扇状地末端にあるところから、主に自然の湧水、例えば田村山の景勝、 産清水・白山清水、蓼川の源泉となった百騎沼清水、さらに上っては麻生付近の清水など、その他大小のたくさ んの清水が、北会津村の北半には、いたるところへ湧き出ていたから、水田開拓及び村づくりの拠点は、その清 水によったことが充分考えられる。

 開拓が漸次扇状地の中央扇面から上部扇頂に及ぶに従って、用水を得ることは容易でなくなり、旧鶴沼川の放

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