北会津村誌 -133/534page
流した河筋をたどって、その凹地・谷地をぬって、灌漑のための用水堰堀 を手入れして当てたと思われる。その名残りは、蒲生来封頃よりの積極的 開拓奨励、新田開拓などにより顕著に進められてきたようにみえる。用水の不足に悩んだことは、記録などからも察しられるが、大川・濁川 ・宮川の、比較的河床の高い用水源を両側に扣え、旧河筋を追うて用水堰を 設けることは、比較的容易で、その点からは、時折、洪水の災害は多くても 他地方のように、用水堀開さくに難渋したことは、深刻にはあまり書き残 されていない。
むしろその水源が、複合扇状地なるため、東西両面から導入することと 扇状地の特質から、扇頂で河筋がいくつにも分れるので、旧河筋をたどろ うとする人々は、その分水・配分量などの調節に苦労してきたあとがみら れる。近年は水田開拓が進んだために、その用水配分が一層困難になって いたようである。古くより用水をとっていたのは、旧河筋の大川より分れた弁天山東麓で、ここより扇頂の分水地形に沿うて、 東より岩崎堰・麻生堰・本郷堰・太治ヱ門堰の四堰に分けるのを基本としていた。これは現在も変っていない。
しかし堰下の開拓水田が拡がるのに反して、近年、ややともすると大川の水面が低下する傾向にあり、この弁 天山下のみでは充分大川より揚水ができなくなって、さらに上流の馬越堰堤による大川堰を構築する必要にせま られた。これには弁天山を掘ぬき、その出口に水力発電所を設けて、この水を多角的に利用する方法が考えられ