北会津村誌 -146/534page

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新興高田橋の橋麓集落三本松
新興高田橋の橋麓集落三本松(舗装された高田街道、昭和29年4月1日門田村より編入された)

昭和二十八年まで対岸の門田村に属していた。翌二十九年四月一日 付川南村に編入したばかりである。古い時代の河筋の移動の余韻が この頃まで残っていたのである。

 2、蟹川橋の架橋 二日町から蟹川辺が、大川の荒れ幅が最も大 で、五〇〇メートル以上にも達する。その中に、変動は常なかった が、幾筋かの川が流れていて板橋が架せられ、洪水のたびごとに流 失しては、渡し舟で難渋な交通をしていた。そのための渡船賃は比 較的高く、保科正之の代に、蟹川の菅井彦之進他二五名に対して渡 船賃取を命じ、取締りをきびしくして、交通の便をはかったことな どが、古記録にみえる。

 明治後半になって、高田橋落成のこともあり、ここに架橋するよ う、郡役所に陳請すること再々に及んだが、ついに蟹川・下荒井・ 安良田の三部落が結束して、一二八名からなる蟹川橋組合を結成し、大正元年四月起工、大正三年三月竣工をみ たのが、全長二六一間にわたる固定板橋である。

 大正十二年この旧銀山街道は県道に編入されたので、組合は権利を放棄し、つづいて大正十五年三月起工、満 二ヵ年を費して、昭和三年七月七日三六〇間、幅一五尺という橋に架け更えた。

 しかし洪水の被害も多く、車馬の交通も繁くなるに従って、この大幹線道路のコンクリート固定橋の必要が必 至となり、漸く村民の熱意ある陳請がみのって、昭和二十九年起工、三十四年落成、現在の見事な固定橋ができ

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