北会津村誌 -145/534page
流にもう一つ、真渡の渡し場があったが、これも同様で、やや規模が小さかった。蟹川橋の固定架橋により、こ れらの渡橋はいっせいに姿を消した。三、高田橋・蟹川橋の固定の架橋
1、高田橋の架橋 東西両側に荒れ川をもつ中州に発達した村として、その渡橋はこの村の開発の致命的なも のともいってよい。宮川・鶴沼川も橋梁流失の際の不便を思うと身にしみる。まして大川に至っては、北会津村 が会津若松市の商圏に含まれているだけに、緊要である。特に荷車から馬車までは、橋板を三枚程度でしのげた が、自動車交通を前にしては、河原の流路だけの架橋でしのげるものでないのは勿論である。その第一の架橋が明治三十四年高田町出身の佐治幸平の努力によって成ったことは、後に四代若松市長にも就 任しているところをみると、衆議院議員でもあったし、当然のようでもあり、むしろ北会津村、当時は川南村で あったが、地元は単に、高田・若松間の廊下の役割を果していたに過ぎないではないかとさえ思われる。高田橋 という名称がそれをよく物語っている。
この固定板橋が落成すると、上米塚と川原町の古くからの舟橋は、いつか姿を消す結果となり、洪水に洗われ て、その遺跡さえとどめなくなっている。川原町の小さい家並みが、漸く橋場の名残を知る人にのみ郷愁を覚え させる。この板橋はさらに昭和四年現在のコンクリート橋にかけかえられた。現在高田街道は完全に舗装されて、自動 車の交通が繁く、北会津村にとっても主要幹線路になっていることは皆の知る通りである。
このために旧橋場の川原町は衰え、新たに三本松が、橋麓の村として異常な発展をみせている。実はつい先の