北会津村誌 -206/534page
宮袋の鼻どリ地蔵尊 ける信仰になっている。祭日は旧三月十三日なそうである。
今は痕跡が全く失われたが、早稲田に御神明様跡というのがあったという。これは神明宮の祠の跡ではなく、おしんめいさまを持ち歩いた婆さんの住んでいた祈祷屋敷の跡ということらしい。
3、村の発達 現在の富士神社と古屋敷・館越・新屋敷の三つが現在の宮袋をなしており、寛文五年の書上げには、宮袋の本村で三〇軒、端村古屋敷で一三軒とあり、計四三軒、田は四〇町余、畑二一町余とある。文化六年の風土記には新屋一九軒、館越三軒、古屋敷九軒とあり、計三一となって、相当の変遷廃家があったことを思わせる。現在は専業農家が四一で、三〇〇年前の部落戸数にほぼ近いまでになっている。しかし新鶴へ通じる交通の要衡にも当り、兼業、商業も橋場集落として発達をみせ、現在は計五〇戸、二六〇人の住む大部落となっている。
ここの洪水の災害と河原地開拓に、如何に苦労したかは、まきぼ(牧場)と呼ぶ字名が下中川原にあり、昔この附近一帯が原野で、馬を放牧していたといい、馬のつくらいばなども上大沼の原野にあった。
古い家は旧肝煎の岩淵宅であるが、変遷のあった村だけに、古い伝承はよくわからない。風土記書上げがあるので、重複はできるだけさけたい。
付 寛文五年書上げ
宮袋村