北会津村誌 -205/534page

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と氾濫原の河原地の開墾地域で、現在も山畑に石礫がころがっていて困りはて、このだんくらに寄せ集めているほどであるから、河原開墾の際、寄せ集めた石礫の壇で、形も、大小も、その並びもまちまちで、後で十三仏信仰などと結びつけたものかと思われる。
2、富士神社と本休寺、道祖神・神明跡その他 富士神社は境内の構図からも古くから動いているとは思われない。貞享二年の書上げには若宮八幡を祭るとあり、富士権現が相殿になっている。洪水をさけた中州に当っている。ここには、恐らく会津藩の保科時代の政策からでた寄せ宮であろうと思うが、稲荷大明神を合祀しているもと新屋敷にあったものといい、現在二瓶の宅地にその跡と呼ぶ場所があり、石祠をたて、名残を止めている。殆ど各戸に屋敷神として稲荷が祭ってあるのは、純農としての開拓村で、水を得易いため、水田が早く開かれたことを思わせる。大竹屋敷に北向き稲荷があったり、石塚屋敷に三宝荒神が祭ったりしてあるが、その来由は聞きもらした。
 鼻取り地蔵の伝承をもつ、心宮山光明院本休寺という寺院が新屋敷にある。新編風土記には文禄三年(一五九四)空鏡という僧が住んでいたとみえる。元和以後の鶴沼川沿いの新田開墾に先じて、既に新屋敷の村造りがあったことを思わせる。宮田に坊屋敷というのがあって、昔坊さんが住んでいた跡と伝えているが、空鏡との関係はわからない。昭和三十八年の道路改修の際、その敷地となり、その痕跡もとどめなくなった。
 館越の新道わきに道祖神の石碑がある。これも改修道路になってからで、その西に岩淵宅所有の山林名儀の小さい字が残っていて、ここに道祖神の小祠がある。みちの神で、村の入口に祭ってあったと思い聞いてみると、旧道は、東の湿地をさけ、曲りくねって、この側を通ったという。小正月の災の神も、この附近で行なったかと思うが、今は位置も移っているらしい。道祖神も、今は専ら耳の遠い人が、お椀に糸を通して、神木の杉にいわいつ

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