北会津村誌 -211/534page
云僧住せしと云。真言宗中荒井村千葉寺の末寺なり。本尊弥陀客殿に安ず。
宮袋新田村
寛永の開拓新田で寛文五年の風土記に既に「寛永元年(一六二四)開くところの新田」とあり、恐らく宮袋の地域内を開墾して新田をつくったであろう。
旧鶴沼川が宮川に合流した氾濫原であるが、むしろ近世は、大川が現在の流域に固定してから、旧河筋に水量が急減して、広い荒野が残り、その後は専ら現在の鶴沼川の洪水地域であったとみられる。堤防でこれを防ぎ、新田を開墾したのに違いない。
寛文五年の書上げには村が四か所にあって、家数一一軒、竈一四とある。これを文化六年の風土記によると、五か所、家数一四となっている。この中の北東の村の丑の方に一区あり、家数三軒とあるのは、現在どこか明確でない。他に移ったのかも知れない。
四か所の最初に開拓されたのは、現在小字を西屋敷と呼んでいる、現在の樋下の字である。全く鶴沼川沿いの堤防に護られた四戸で、旧肝煎の斎藤宅もここにある。雷堂という庵寺ようのものが、土堤下にある。堤防の構築が、現在のように大規模に施されなかった頃の、洪水の災害が思いやられるようである。ここの四戸は、古くから動いていないらしい。
その東に東屋敷とか、単に南衆とよぶ一区がある。今の家東の字に当る。ここはもと三戸であったが、斎藤肝煎よりの分家がはいって四戸になった。
さらに北に東衆、今の中島二軒、西または西衆、今は樋下字に含まれているが、二軒あり、この四区のほぼ中央