北会津村誌 -212/534page
鶴沼川の氾濫により土堤で護られている宮袋新田 道路の交叉点に、ぽつんと公会堂が一軒立っている。いかにも河原地のあちらこちらの肥沃なところから、開墾して居ったというような、新田開拓の村を思わせる名残がみえる。現在一二戸は、風土記の丑の方三軒を除くと変っていない。鎮守・寺院は全く宮袋にあるから、この端村のような形で発達し、後に四区を総べて独立部落としたものであろう。耕地面積は寛文五年に四七町九反、畑三町六反とあるのは、現在田畑計一七町五反四畝歩に達しているから、その後も開拓の引きつづき行なわれてきたことを物語っている。
付 寛文五年書上げ
宮袋新田村
一、若松の西北十一里に有、人家散して四所に住す、千口の字の如し、寛永元年開く所の新田なり。
一、家十一軒、竈十四、男四十五人、女三十六人、馬七疋、年々増減あり。
一、田七町九反一畝十一歩、内八反七畝土色黒して砂交、一町八反土色赤して砂交り五町二反四畝十一歩土色白して砂、土色並して白し、但一分黒、二分赤、七分白、一町中の上、一町七反五畝中の中、一町六反五畝中の下、二町三反五畝下の中、一町一反六畝十一歩下の下、土の位、並して中の下。
一、畠三町六反一畝二十七歩、内六反五畝土色白砂、二町九反六畝二十七歩土色赤して砂交、土色並して赤し、但二分白、八分赤、八反五畝中の上 一町中の中、九反五畝下の上、八反一畝二十七歩下の下、土の位並して中の下。