北会津村誌 -222/534page
権現などと同じく、清水に関聯して祭られたもので、もとは白山権現といっていたことは、貞享の書上げをみるとよくわかる。北会津村全域が扇状地で、その末端はどこにも清水が湧き出るが、またこの清水に関聯した、村の名や寺の名、はては水を祭る白山権現系統の信仰の厚かったことを示している。
2、館跡の伝承と村の発達 文化六年の風土記には、村北およそ二町四十間に、昔関出雲守某が住んでいたという館跡のあったことがみえている。屋敷、井戸の跡、五輪壇などもあったことが詳細のっている。享保の頃(一七一六〜一七三五)まで、その末葉が、その館跡に住んでいたらしいが、その総左ヱ門といった人が、現在の旧肝煎大竹義作宅と、どう結びつくかは明らかでない。この館は村北二町四十間も離れており、村南の弥生遺跡へも現在の村よりはやや離れているから、いくらか古い時代は中州の南にあり、中頃は百騎沼を北の護りとして館を北に築き、現在の位置は長泉寺、白山神社などの、清水の側に住みついたというような経過を、辿っているかも知れない。
寛文五年の書上げには田が一二町九反、畑が六町六反で、家数二二とあるのに、現在は四周河原地、湿地の開墾により田が三八町、畑が九町七反と増加しているのに、実戸数は二五であるが、農業戸数の二二戸は動いていない。ここには中州の古くからの、比較的安定した居住がみられるようである。
付 寛文五年書上げ
今和泉村
一、若松の西八里に有、南北一町十三間、東西四十五間、伝て云古此処に清水湧出る。其味他の水に異なり、故に清酒を作、又同郡に元より和泉村云々有故に此村今泉と名く、家居乱にして図何れの形とも難記、当村建始の年号を不詳。
一、家二十二軒、竈二十五、男七十一人、女六十一人、馬二十疋年々増減有。