北会津村誌 -235/534page
る。新編風土記によると慶長十六年(一六一一)行運という僧が草創したとある。古屋敷より、既に現在の本村に移ってからの創建ということになるかと思う。本尊に不動を安ずるとあるが、それが傍によって、現在は御丈四七セソチの大日如来が祭られてある。檀那寺としては十二所新田も同じである。現在の不動はもと秋山正大宅のもので「大仏師職、千本良祐慶作」とあるが、古くからのものかどうかわからない。子安観音、聖観音も祭られているが、これは廃家が寺に納めたものであるという。この本泉寺の八月二十五日の祭に行なわれた会津念仏踊も数年来衰えているという。
付 寛文五年書上げ
本多村
一、若松の西北十里に有、南北一町六十一間、東西三十八間家居混乱して図何れとも難記、村の建始の年号本多村と云由来不詳。
一、家二十二軒、竈二十四、男六十八人、女五十六人、馬十六疋、年々増減有。
一、端村古屋敷の東北四十八間に有、東西一町七間、南北三十六間、家居乱に住す。
一、家十四軒、竈十四、男二十七人、女二十八人、馬七疋、年々増減あり。
一、端村新田本村の西北三町三十一間隔て有、東西十八間、南北十六間。
一、家三軒、竈四、男十人、女六人。
一、田十五町七反二畝十二歩、内一町八反土色黒真土、四町一反土色黒して砂交、五町一反二畝十二歩土色黒野土、四町七反土色薄黒 土色赤して黒く、一町九反中の上、五町二反中の中、五町三反下の上、三町三反二畝十二歩下の下、土の位並して中の中
一、畠六町五反八畝二十歩半内九反三畝土色山鳥真土、一町二十歩半土色薄黒く、四町六反五畝土色白して砂交、土色赤くて白、但三分黒七分、白九反三畝上の下、一町一反中の上、一町五畝下の上、三町五反二十歩半下の下、土の位並して中の下。
一、早稲少、中稲多、晩稲、糯稲少、大麦、小麦、蕎麦、黍、稗、麻、油荏、大豆、小豆、大角豆、菜宜、大根、午蒡、芋。