北会津村誌 -234/534page
本田の旧一盃館跡の菅原神社(旧天満官) を避けて、現在の位置に移ったことが、新編会津風土記にもみえている。この新田西北縁は、現在も洪水常習地で村の位置がかろうじて低い段丘の上にのっているのがみえる。この移動の際、同じ山内一族の開墾部落として、十二所新田に属したらよいか、本多村の地先開墾部落として、その端村になったらよいか悩んだことが伝えられている。当時の本多の肝煎が山内系であったため、木多村の端村になったように伝えている。寛文頃の二戸は現在一〇戸に増加しているが、全部酒井姓で、一族開墾のような面影を残している。銀山街道がこの村中央をぬけて、一部店屋などもみえる。
2、出井山本泉寺 寛文の書上げに「井出川」の項があるが、固有名詞ではなくこの付近の川は皆湧水の源をもっているから井出川である。本泉寺が既に清水の湧出る源の意で、これに出井山の山号をつけたことは、部落そのものが扇状地末端の湧水地帯に住みついてきたことを物語ってい
本田出井山本泉寺の大日如来