北会津村誌 -241/534page

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というから、古くから新庄という字名があったわけではないらしい。
2、戸数と耕地の増加 寛文五年の書上げには、当時を村の起源と考えている人もあるほどであるから、家一三軒、田五町六反、畑四町二反とあるのは、開墾後歳月の浅いことを物語っているようにみえる。氾濫原で畑は現在も六町五反とあまり増加をみせていないが、水田は実に三二町四反歩、戸数は、農家で二三戸、それに鶴沼川に架した銀山橋の畔にある交通の要衝を占めるためか、大工一、畳職一、自由業二を含み、二七の世帯が生活するように発展している。附近に菜種の盛んに栽培された頃は、油屋などもあったかに覚えている。
寛文五年書上げ
 十二所新田村
一、若松の西北行程十里にあり、東西一町六十一間、南北五十二間、古より此処に十二所権現の社あり、其河原に寛永年中新田を開て里民住す。十二所権現を鎮守として祭る故に十二所新田村と名、家居町並にして長し。
一、家十三軒、竈十七、男四十七人、女三十五人、馬十一疋年々増減あり。
一、田五町六反一畝十七歩、内八反五畝土良黒して砂交、二町一反六畝十七歩土色赤して砂交、二町六反土色白して砂交、土色並して白し、但二分黒、三分赤、五分白、六反中の上、一町一反中の中、二町二反下の上、一町七反一畝十七歩下の下、上の位並して中の下。
一、畠四町二反一畝十五歩、内三町一反土色白して砂交、一町一反一畝十五歩土色薄黒し、土色並して白し、但三分黒七分白、一町一反中の上、一町六反一畝十五歩中の中、一町五反下の中、土の位並して中の下。
一、早稲少、中稲宜、晩稲、糯稲少、大麦、小麦、粟、蕎麦、黍、稗、大豆、小豆、大角豆、菜、大根、牛蒡、芋。
一、高九十五石三斗一升一合、此取六十六石七斗一升八合、免七つ年々増減あり。
 年貢

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