北会津村誌 -240/534page

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時寄寓して、鶴沼川流域の荒地を開墾、新田造りをした系統に属しているように伝えている。これは文化六年の新編風土記にみえる「寛永中(一六二四〜一六四三)開くところの新田、其の地にもと十二所権現ありし故名けし」とあるのが真実性に近いとみえる。
 部落には延宝元年(一六七三)蕎麦目よりこの地に土着した山内惣七が旧肝煎即ち村の長となるとも伝えている。新田開拓が相当計画的になされたことは、新屋敷新田にもみられるが、さらに標式的に十二所新田は道路の中央に一本の堀をつくり、その両側に、或る程度の屋敷割を施して定着したようにみえる。寛文年間(一六六一〜一六七二)部落の中央に山内・小林・秋山などが新居を構えて開拓を始めたというようにもいう人があるが、後にのせたように、寛文五年の書上げに、寛永年中開くとみえるから、さらに古い新田であることは確かである。屋敷割がその頃改めて現在の村の位置になされたのかも知れない。昭和八年の救済工事で道路の中央の堀は埋められた。しかし旧銀山街道の一里塚跡が、現在の道路の墓地附近に、北側に一里壇、南側に狐が住むので俗に狐壇といって、双対の塚があったところから、村中を旧道、宿場のように用いたとも思われない。
 本多・十二所を併せて新庄という大字名ができているが、これは明治初年の町村制施行の際、本田の旧肝煎、俗に庄屋と呼んでいた山内新左ヱ門と、同じく十ニ所の庄屋山内庄左ユ門から一字宛とって新庄とした

地割りをし中央に堀のあった十二所新田の村なか
地割りをし中央に堀のあった十二所新田の村なか

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