北会津村誌 -243/534page

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一、若松より田舎道十二里
一、鎮守十二所権現、本田村へ引宮に被仰付、祭礼九月九日下荒井より社家来祭、当所の者社参而遊ぶ。
一、鎮守御嫌と而井掘不申、十四年以前に安休老御祭に而自由す。
一、菩提所、同郡本多村本泉寺定寄進なし。
一、逆瀬川村へ御年貢米三斗六升宛年々出、葉柴、かくま取。
一、蟹川村へ代二百文年々出、大川舟橋渡。
一、軽井沢へ相場米馬壱疋に二升宛年々出、葉柴、かくま取。
一、中荒井へ橋入用を出、大川冬橋を渡る。
一、家職、莚、太縄、わらんぢ少、田畠稼き間に仕出。
文化六年風土記より
 十二所新田村
 此村は寛永中(一六二四〜一六四三)開く処の新田にて、其地にもと十二所権現の社ありし故名けしと云。府城の西に当り行程一里二十四町、家数二十軒、東西二町一間、南北五十二間、丑寅の方本多村に続き、四方田圃なり。東は村際北三十間、共に本多村に界う。西六町、大沼郡高田組檜目村に界い、宮川を限とす。南二町十二間、宮袋新田村の界に至る。共村は未に当り七町、又辰の方三町三十二間、鷺林村の界に至る。其村まで十町三十間余。
 ○山川 宮川 村西六町にあり、宮袋新田村の界より来り、北に流るること八町二十間、本多村の界に入る。
 ○褒善 伝吉 幼き時より橋爪組下米塚村肝煎三郎次が家に奉公せり。主人も心安きものに思い、金銭の出入までも任せおきけり、或時主人の老母、府下に出るに従い、下小松村の渡船に乗合しに、折節水かさ増し、船くつがえり、同船四、五人まで溺死せり。伝吉さかまく波に押流されながら、主人の母にひしと附添い、川の中島に登りければ、上米塚村より助船出て、過なく引取り

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