北会津村誌 -244/534page
けり。寛政二年(一七九〇)賞して米を与えき。
一一、宮の下村
1、自然景観と村の起り 現在の部落の北約一〇〇メートルの字町畑という畑から、多くの石器や土器が発掘されたことがあるという。町畑という字名も、古くより、村の位置がその辺にあったという伝承があって、つけられたものかとも思う。現在、その前代の住居址を確認することは容易でないと思うが、大変水利が悪く、火災にあって水利の便のよい現在の位置に移ったのであると伝えている。
村の西添えに、蓼川より分れた用水路が、古い河跡で、中州をえぐりとったような地形で流れているが、現在の大川が鶴沼川と呼ばれた頃は、現在の鶴沼川より遥か西の辺、新屋敷の佐賀瀬川扇状地末端の村役場墓地下から、東蓼川辺までを氾濫原として流れていたらしい。この幅は、実に宮下部落の西端より、新屋敷の扇状地の末端まで、一、三〇〇メートルに達する。佐賀瀬川の新扇状地が、現在の鶴沼川と合流して、西側より漸次堆積平野の水準を高めてきたのに対し、旧鶴沼川は大川に流路を変えてから、土砂の搬出量も少なく、この附近の旧氾濫原では、東寄りの蓼川筋が最も低くなり、大正九、十年安良田・宮下・館・出尻四カ部落で耕地整理をするまでは湧水地・湿地・葦谷地などが、蓼川沿いより部落近くまで拡がっていた。田村山の景勝清水、産清水より下流の湧水地帯と、この蓼川沿いの間の中州がこの部落の位置であり、南の現位置に移っては、村の中央、現在のポソプ小屋の処に清水があって、各戸はここから飲料水を運んでいた。
宮の下という地名は八幡宮の下という意味であろうが、この神社の再建・修覆のことは、棟札がよく物語っている。これにみえる古い村の名は下荒田であり、現在の安良田は、つい先頃まで荒田と書き、現在では下荒井の