北会津村誌 -245/534page

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宝寿院を菩提寺としているが、古くは荒田の東泉寺に属し、この部落に寺院はなかった。
 八幡宮はその頃より既に現位置にあって、付近を宮の下と呼び、そこに移るようになって、宮の下と呼ぶようになったかと思う。最も古い応永十年(一四〇三)の棟札には勿論下荒田とあり、次の天文二十四年(一五五五)も下荒田とみえるから、宮の下と改めたのはその後ということになる。その頃現在の位置に村が移ったものかと思われる。
2、八幡神社の由来 応永十年(一四〇三)既に八幡宮を修理したという棟札が現在残されているのは、北会津村の開発を知る証跡として貴重なものである。その全文は新編会津風土記で後に掲げる。高さ八八セソチ、幅一八・ニセソチの檜材のもので、今から約五七〇年前、室町時代に当る。
 これについで天文二十四年(一五五五)の修理棟札があり、銘文は後掲するが、やや小さく高七八セソチ、幅一八・五セソチ、同じく檜材である。さらにもう一枚延宝二年(一六七四)賢太□守二代源正経修補の高さ一・〇三メートル、幅二七セソチの梢々大きな棟札がある。
 応永十年のものには、裏に「会津西十二村の中、下荒田百姓同心造之」とあるが、天文二十四年(一五五五)のものには表に「富田美作守、藤原滋実」とある。これは下荒井の城に住んだ葦名の四天王と呼ばれた重臣の名であり、今は廃嘘と化した下荒井の城主の裏付けになる。
 現在の御本殿・幣殿・拝殿は明治十七年の再建、御供所は明治三十六年の再建で古いものではないが、社殿が整っているものとしては北会津村で唯一のものである。
 棟札にも会津西十二村の内とあったり、参道入口の石標にも「奥州会津郡中荒井組総鎮守」とあったりして、宮の下一部落の鎮守というよりは、中荒井組は現在の大沼郡新鶴村和泉新田・沢田・蕎麦目・梁田方面にまで及

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