北会津村誌 -247/534page
んでいたし、現在の渡部家の神職についてからは、初代勝太夫久安より十代になっているが、従五位下に叙せられた辞令なども保存されており、上荒井の梅宮、下荒井の坂内神職と共に、北会津村の格式のある神職が掌った中荒井組南部近郷の信仰の厚かった神社であった。もう一戸、大正初年まで五十嵐という祈祷者があった。
この祭礼はもとは旧六月十五日「でんこ参り」といって近郷の人の集る大きな宮籠りの夜祭があった。でんこは、御神楽の太鼓の音からきている。村人三人が、笛・太鼓の楽人を勤め、巫女が舞を舞う。これは現在祭日が新の八月十五日、現在の八月二十五日に変っても、舞われている。その他、二月と十一月に初卯祭、六月晦日には名越祭が行なわれている。
ここには会津の永正頃(一五〇四〜一五二〇)の有名な歌人小平潟兼載の詩歌が社宝として保存されているという。
3、村の発達 八幡神社の棟札に見えみ通り、既に室町時代より古く村が起り、戦国時代頃、村も宮の下の現位置に移ってきていることは、ほぼ確実と思われる。葦名時代、佐藤大和・宮下丹波が館を築いて住んだという伝もあるが、新編会津風土記には、多くの館を記載しているが、それには見えない。やはり、荒田の中州がのびた下荒田に、古くより八幡神社が祭られ、それを中心として起った村かと思われる。
中荒井組の寛文五年(一六六五)の書上げによると、宮の下は二二軒、竈二五、他に勘太新田一とある。勘太新田とよぶ屋敷が、鶴沼川の対岸、大沼郡新鶴村新屋敷新田の端村、向新田、俗に南新田と呼ぶ村南にある。もとはもっと離れており、勘太新田と南新田の間を鶴沼川が流れていたことは、古地図の村境をみるとよくわかる。新屋敷新田は元和九年(一六三三)の新田開拓村であるから、鶴沼川の洪水や改修による、川筋の移動はその頃で、それ以前は川東にあり、宮の下村の端村となっていた、文化六年の新編会津風土記書上げの頃になると、