北会津村誌 -248/534page
宮の下のもと端村のあった付近と伝える古塚と鶴沼氾濫原・新田橋 やはり宮の下の端村にはなっていたものの、「宮川の西にあり」と、川筋の移動を確実にしている。
元文二年(一七三七)の記録には三七戸、一八九人とあり、この部落としては、最も戸数・人口の増加した時代かにみえる。天明六年(一七八六)は飢饉のため死者のでた各部落で、廃家・空家のでた時代であったからであろうか、約半減の十九戸、九五人になった記録がある。現在の二七戸、一七二人は、明治元年頃の二六戸、一二一人と大差がなく、明治以来の順調な発達をみせている。
次に寛文五年、貞亨二年の書上げと、文化六年の風土記の写しをのせて当時の村の様子を知ることにする。
付 寛文五年書上げ
宮下村
一、若松の西北行程十里に有、東西一町十九間、南北十八間、家居混乱して図何れとも難記、村の建始の年号並宮下村と云来由不詳。
一、家二十二軒、竈二十五、男七十二人、女六十一人、馬十一疋、牛一疋、年々増減あり。
一、端村勘太新田、本村より西南三町五十一間隔て有、東西九間南北七間。
一、家一軒、竈一、男一人、女三人、馬一疋。
一、四十二町六反九畝十歩、内一町七反土色黒真土、一町三反土色赤して砂交、三町五畝土色白くして砂交、三町六反土色薄黒く三町四畝十歩土色薄白し、土色並して白く、但一分赤し、四分黒、五分白、一町五反中の上、二町七反中の中、二町八反中の下、