北会津村誌 -251/534page
文化六年新編会津風土記写し
宮下村 端村 勘太新田
天文の頃(一五三二〜一五五四)まで下荒田村と云。後今の名に改めしと云。府城の西に当り行程一里二十四町、家数二十四軒、東西一町二十間、南北一町三十間、四方田圃なり。東五町五間、北三町二十間、共に館村の界に至る。其村は丑寅に当り三町十間余、西三町四十七間、大沼郡高田組新屋敷新田村の堺に至る。其村まで八町四十間余、南九町五間、本多村の界に至る。其村まで七町三十間余、又巳の方一町十三間、荒田村の界に至る。其村まで六町。
○端村 勘太新田 本村より六町三十間余申の方宮川の西にあり。家居一軒、東は宮川に近く、西は新屋敷新田村の端村、向新田の民居に続く。
○山川 宮川 村西二町にあり。荒田村の界より来り、北に流るること十町余、出尻村の界に入る。
○関梁 橋 村西四町にあり、宮川に架す。土橋にて隣村の通路なり。(新屋敷新田村の条下に出す)
○神社 八幡宮 境内東西十六間、南北六間、免除地、村中にあり、鎮座の初分明ならず。応永十年(一四〇三)、天文二十四年(一五五五)に修理ありし棟札二枚あり。其後延宝二年(一六七四)に筑前守正経これを修補せり。八月十五日祭礼あり。鳥居両柱の間八尺、本社五尺四面東向、幣殿、二間に一間半。拝殿、四間に二間、神供所、拝殿の北にあり、二間に一間半。
棟札
表
迦陵頻迦声結縁之初普及於一切
勧進沙門阿闍梨豪仙 子息平義
梵字 奉修理八幡宮御社一宇 宮主平守光
応永十年(一四〇三)癸未八月六日