北会津村誌 -284/534page
て網を引くなど、いろいろあったことが記されている。かじかをかじか網で石ふみをしたり、つき魚、またはち 魚をつりあげるなど、古くから、内陸で海の魚のなま物が得られないので、貴重な漁業であったことがわかる。
これは現在、下流に逐次ダム式発電所が建設されてきて、完全に失われた例である。
真渡村などでは、これに代って、鱒の養殖を清水を用いて行なっている。
鮭・鱒ののぼったのは、そう古いことではない。
もう一つ洪水の際の計画的な流し木と、自然の流木による薪・材木の運搬。採取の行なわれたことも、つけ加 えておこう。洪水の時の流木は、沿岸部落の重要な薪の採取にもなっていたことがある。これも河川改修や上流 に洪水調節のダムなどが建築されて失われ始めている。付 寛文五年書上げより
蟹 川 村
一、若松の西北六里に有、南北一町七間、東西五十一間、家居乱にして図何れの形とも難記、村建始の年号並名蟹川村の由来不詳
一、家二十七軒、竈三十二、男八十八人、女六十五人、馬十五疋、年々増減あり。
一、端村小出、本村より西二町二十八間にあり、南北六十間、東西五十八間。
一、家九軒、竈十、男三十人、女二十人、馬七疋、年々増減有。
一、端村上川崎、本村より東北五町五間払あり、方二十四間。
一、家五軒、竈九、男十八人、女十六人、馬五疋、年々増減あり。
一、端村下川崎、本村より北一畳一町三十九間に有、南北五十二間、東西二十間、端郷三ケ村家居乱にして図何れの形とも難記、
当邑建始の年暦並名小出、川崎来由共に不詳。
一、家九軒、竈十二、男三十一人、女二十二人、馬四疋、年々増減有。