北会津村誌 -319/534page
であることが確認できる。
文化六年の風土記に、村中に館跡があり、館の内という字があったとあるが、これを古墳時代の地方豪族の屋 敷跡とみるか、鎌倉以後の葦名の臣の豪族の館跡とみるかは、既に形が損じてわからない。
清水の豊富さと神社・観音堂の境内の森、それに古墳とあわせて、古くからの由緒ありげな村であることは確 かである。付 寛文五年書上げ
田 村 山 村
一、若松の西北行程八里に有、南北一町四十三間、東西一町四間、家居乱にして図何れとも難記、村建始の年号並名田村山の来由不詳。
一、家四十三軒、竈五十三、男百十九人、女八十七人、馬二十四疋、年々増減あり。
一、田二十五町三反五畝三歩半、内一町五反三畝、土色黒真土、四町九反七畝土色黒して砂交、九町一反土色黒野土、五町土色赤して砂交、四町七反五畝三歩半土色白して砂交、土色並して黒く、但二分白二分赤六分黒、六町五反中の上、四町中の中、六町一反中の下、四町一反下の中、四町六反五畝三歩半下の下、土の位並して中の下り
一、畠六町四反一畝二十一歩、内九反三畝土色黒真土、三町五反土色黒野土、一町九反八畝二十一歩土色黒して砂交、土色並して黒く、一町上の中、三町四反五畝中の下、一町九反六畝二十一歩下の中、土の色並して中の下。
一、早稲少、中稲、晩稲多、糯稲少、大麦、小麦、黍、蕎麦、大豆、小豆、大角豆、麻、菜、大根宜、午蒡、芋。
一、高三百五十九石八斗六升、内本田三百五十二石四斗四升、新田七石四斗二升、此取百九十三石一斗一升八合、免五つ三分六厘六毛四払八味、年々増減有。
年 貢