北会津村誌 -334/534page

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和泉の諏訪神社の森
和泉の諏訪神社の森

水を指すらしい)で流失、後に再建されたと、来由を書いた明治二十九年 八月の碑が、森の入口左側にみえている。氾濫原の中央に位置しては、そ のような災害はまぬがれ得なかったろうとも思われる。直盛は芦名七代で 幕の内の小館に移り、後に小田山に築城し、明徳元年には山城国で戦死し た勇将であったから、諏訪神社の勧請も充分考えられるが、最初からこの 地に遷座されたものでないことは、来由の記録でもわかる。
 寺院が二ヵ寺になっているのも、清水を板じろにして何ヵ所にも村造り したことによると思われるが、知徳寺は永正年中(一五〇四〜一五二〇) 雲龍という僧が住んだとある。本尊は延命地蔵尊で、御丈四七センチ、牛 沢組の大徳寺の末寺になっている。地蔵尊は側にもう一体並んでいて、御 丈もやや大で五五センチある。当寺開山は締巌善察大和尚と伝えるが、詳 細は不明である。
 台泉寺はやはり泉に関係あるが、本尊は阿弥陀如来、御丈五一センチ、 どうして磐城専称寺の末寺になったかの来由はよくわからない。

付 寛文五年書上げ
    和  泉  村
一、若松の西北十里に有、東西一町五間、南北四十八間、里民相伝往昔此処に清水湧 出る。其味他の水に異なり、故清酒を作る、困之に泉村と名く、家居乱にして図何れとも難記、村建始の年歴不詳。


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