北会津村誌 -333/534page

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文化六年の風土記で、やはり橋本二軒として記され、和泉村の端村になっており、総じて、さらに西部の村々ま で旧中荒井村に含まれていたことでも、旧鶴沼川が、現在の鶴沼川に至るまでも、河道の変遷が多かったことを 物語っている。和泉村は旧鶴沼川の扇状地末端の湧水地帯に位置して、恐らく清水の湧出地点と、河道の変遷の ためであると思われるが、いくつもの集団からなり、総じて和泉村と呼んでいたらしい。
 その最北端は下和泉といい、寛文互年も文化六年も八軒の戸数がうごかない。その南諏訪神社と、宗洞宗福田 山知徳寺のあるのが中和泉で、これを俗に和泉村と呼んでき、旧肝煎もここにあった。ここが清酒に適する良質 の清水が湧出したという伝承のあるところ、寛文五年に二四軒あったが、文化六年には一〇軒に減じて、昔の盛 んな面影は失っているようである。
 さらに南に上和泉があるが、これは村の中央を、ほぼ南北に走る道路によって、東が上和泉で、寛文五年で一 四軒、文化六年で一五軒とあまり増減がみられない。道路より西を台和泉、或は単に台村ともいって、和泉の肝 煎の支配はうけていたが、寛文五年の書上げでも、文化六年の書上げでも、ただの八軒で独立した村の取扱いを うけてきた。恐らくここに、全く系統を異にする、磐城の専称寺の末山、浄土宗正栄山台泉寺があったためと思 うが、文化六年の風土記では、これを和泉村に二ヵ寺あるがように取扱っているから、台村独立扱いの由来は、 確認は困難である。鶴沼川向いの橋本までを端村として取扱ったことと比較して、村の離合、集散の取扱いの変 化の多かったことを知り得る。
 2、諏訪神社と知徳寺、台泉寺の来由 諏訪神社の森は氾濫原の真只中に孤立して美しい。やはり附近に湧水 の拠点があって、境内がつくられたものと思うが、今はわからない。永仁二年(一二九四)芦名直盛が信濃国本 官より勧請、天和元年(一六八九)この地に止まり、天文の洪水(天文五年−一五三六−六月二十八日の白鬚の


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