北会津村誌 -344/534page

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拓免許の全文が風土記にもみえている。この恩典は、他の新田開発にも附与されたもので、大体類似している。 次に上米塚の旧肝煎小池喜八郎宅の資料によって大要を述べてみる。
 出新田又は中新田ともいって、上杉景勝より米塚の地を賜った小池筑後守貞道が開拓に手を染め、その子左京 介道利が新田開発を完成したことになっている。
 貞道は芦名家が滅亡してから、天正十八年(一五九〇)に米塚に来て、最初は郷士米塚文吉の食客となり、後 に蒲生秀行に乞うて、大沼郡下小松村分の原野六万坪を引受けて開拓、一八戸の出新田をつくった。地先開墾で はなくて、米塚村から分れて出新田をつくったことになる。四代目小池義利の代に、天和三年(一六八三)の洪 水があって、田畑。家屋が流失、その復興に三年を費したとある。その際に、水下二六ヵ村とはかって岩崎口に 中荒井堰を開いた。これが既設の思い堀堰の水不足を解消したことになるという。この中には口伝のものもあ る。現在上米壕より本郷町上荒井新田につづく本郷街道に沿うのがそれであるが、これも、洪水により、開発当 時より相当西へ移っているように思われる。
 昔は上米塚より対岸の一ノ堰方面に渡る渡船場があり、これを通って大川に沿うて上り、下野国に通った。冬 は水量が少ないので、橋を架したこともあるという。三本松に高田橋が架せられてからは、この渡船場は姿を消 したが、それに近く、現在会津線の鉄橋が来せられているのも、古い交通路の因縁を思わせる観がある。

付 寛文五年書上げ
    上米塚村 端村 出新田 宗頤町
 此村至徳のころ(一三八四〜一三八七)葦名直盛、高久組幕内村に任せしとき、米倉ありし処ゆえ米塚と名け、中頃米丘と書き しこともあり、同称の村あるゆえ、上、下の字を加えしと云。府城の西南に当り行程一昭「家数三十四軒、東西二町四十四間、南


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