北会津村誌 -345/534page

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北四十七間、四方田圃なり。村中に下野街道あり。東三町三十八間、本郡南青木組飯寺村に界い、鶴沼川を限とす。其村は丑寅に 当り十四町三十間余、西三町、北三町、共に下小松村の界に至る。其村は酉戊に当り十一町三十間、南八町大沼郡本組本郷村の界 に至る。其村は未申に当り六町余、又末の方二町上荒井新田村に至る。其村まで二町十間余。
 ○端村 出新甲本村の南五十間にあり、家数十八軒、東西四十二間、南北二町三十問、四方田圃にて村中に下野街道あり。寛 永三年(一六二六)に閑けり。其時蒲生氏より与えし制札を此村に持伝う。因に其文を載す。旧は此より東の方鶴沼川の傍にあり 何の頃にか此に移せしとぞ。

    定
大沼郡小松村に新田宿相立候、御代官給人共に構無之者、望次第罷出開作可仕候、井廿ヶ年以前に致欠落候者、屋焼人殺仕者之 外は、御代官給人構雖在之罷出於令開作は異議有間数候、御年貢之儀三年作取に被下候、御役義末代可被成御用晴侯条可存其意 老候也。
  寛永三年(一六二六)二月廿四日
                      外地 信濃守
                      福西吉左ヱ門
                      稲田数馬之助

 ○宗頤町 葦名盛氏本郷村の向羽黒山に城を築き、元亀元年(一五七〇)此処に町を開き、医師糟尾宗頤と云者を置し故、此名 あり。本村の巳午の方五町十間余にあり。家数二十軒、東西五十三間、南北一町二十間、四方田圃にて、東は鶴沼川に近し。宗頤 がこと滝沢組滝沢村の条下を併見るべし。
 ○山川 鶴沼川、俗に大川と云。村東三町三十間余にあり、本郷村の境より来り、北に流るること二十町余、飯寺村の界に入る
 ○関染 渡船場、村東にて鶴沼川を渡す。府下より下野国に通る街道なり。冬月は橋を架す。


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