北会津村誌 -460/534page
最初より農業開拓であり、田の神の信仰が一貫して、現在の民間信仰にまでつながっているようである。
もう一つのこの地方の大きな流れは恵日寺であるが、これも磐梯山に祭られている明神は山の神であり、これ を修験参道の第一の鳥居、即ち一の戸にしたのが本寺であり、ここに寺院ができたのは大同二年(八〇七)と縁 起伝承にはある。ここにも古くお田植祭のあった証跡があるから、山の神から山麓の田の神へ下られた、盆地開 拓と、信仰の流れがあったようにみえる。この修験は恵日寺の全盛時代に、全く仏教の流れとなって盆地の村々 に滲透し、いなばちとなって、現在までその痕跡をとどめている。
石原に康保元年(九六四)薬師堂宝蔵院が開かれたとあるのは、単なる伝承かも知れないが、会津地方には宇 内や勝常など、既に古く薬師信仰がはいり、会津五薬師などの通称もあるくらいであるから、初期の中州定住者 が病気・災難をさけようとする祈願として、まず薬師信仰をもってきていることは、充分うなずかれる。そして 旧鶴沼川扇状地の開拓は末端の清水の湧出る付近に定住して行なわれたと考えられるから、その裏付をもってす れば、さほど無理な伝承でもない。
鎌倉期になって武勇の神八幡信仰が手厚くなり、下荒井築城の際八幡宮を祭り、旧下荒田即ち宮の下に八幡宮 を奉遷したのも、棟札などから、ほぼ同時代であろうと思われる。
これと表裏一体をなすかのように仏教も普及してきて、正慶二年(一三三三)の下荒井の観音堂、つづいて文 中五年(一三七九)蓮華寺建立、永徳元年(一三八一)芝原山妙法寺の建立など、開発はやはり扇状地の北半が 重点的になされてきたようにみえる。
この頃の古い信仰は神仏混淆の権現信仰で、宮袋の富士権現、二日町の白山権現など、修験などが奉じた権現 系統の多いことが目立つ。後にこれらは神仏分難により神社と改名されている。