北会津村誌 -459/534page
が、今は盆踊は都市にいってしまって、村では殆ど見ないようになった。村に踏止まって専業農家になる若者が 少なくなったことと、ラジオ・テレビなどによって村の若者の楽しみがその方面に向き、いたずらに若松市の市 街地の盆踊などに圧倒されて、関心を失いかけていることに主な原因があろうと思う。しかし盆踊自身のもつ意 味の祖先供養、豊作感謝とか祈願、男女の自由な交際などの場としても失いかけているようにさえ見える。
十六日のお帰りには、また墓火を焚き、盆棚にかけた、そうめんなどの食物は別として、棚の飾りつけや供え 物は、茄子馬にのせて、村端れの川に流すことが、まだ殆どの村にのこされている。
第六章 村人の信仰
一、神 と 仏
北会津村は古くは大沼郡中荒井組、橋爪組であったので、高田の伊佐須美様を産土神様として、一郷の総鎮守 のように思ってきているようである。今もお田植祭には、殆どの村が休み、餅を搗いたりして、そのつながり を感じている。これが奥の御神楽嶽より博士山・明神岳と祭られてきた伝承があるが、ここまでは奥会津の地に ふさわしい山の神の信仰であったろうと思う。盆地の高田町、現在の地に鎮座されてからは、田の神の信仰がつ いて、お田植祭などの神事が行なわれてきたから、いろいろな縁起伝承は別としても、斉明天皇の六五八年頃、 即ち奈良時代末頃に、現在住む農村が、盆地の周縁なり、中州につくられ始めたではないかと思われる。これは