北会津村誌 -472/534page
西麻生の村東などには、このむらからこうりをする広場があった。 無事帰ってきた時も、ここで、わらじを南向きにぬいで、扇で、送 ってきた御伊勢様を送り帰してから、むらからこうりになったとい う。それから家に落着いて、近親者を呼んで宴を開くのを、うちか らこうりといっていたが、現在も、このうちからこうりの程度のも のは行なっている。
同行者講で今もよく行なわれているのは観音講で、若い嫁さんた ちが、会津三十三番観音廻りをやった同行者の講中である。
現在も各部落に相当根強く残っているのは八日講で、春の二月八 日、秋の十一月八日に、宿持廻り、食べ物持寄りで、子供たちは天 神講、普通の人々は出し合い講、これは食べ物を持ちよるからであ る。この際、伊勢講などを行なう村もある。村の懇親。融和をはか るためには違いないが、何の神なりと祭って、神にも供え、自分ら もそれと同じ物をわかち食べるところに、血のつながる信仰を意識 しようとした風習がうかがわれる。単なる飲み食いをする現在の宴会のようなものは、古くはあまり行なわなか った。
つぎに各部落を廻った際の供養碑の気付いたものを、いくつか順序不同に掲げてみるが、その信仰の厚かった 時代と種類がよく窺われる。二日町には念仏講中などの碑もみえたが、会津には古くから、若松の融通寺を中心