北会津村誌 -471/534page

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  四、講中とその供養碑

 神社、寺院 村中の辻などには、二十三夜、日待供養碑の類が目立つほど多い。現在も二日町などでは二十三 夜講、日待講などを行なっているそうであるから、信仰・行事が完全に失われているわけではない。多くは部落 単位に村人が、日待ち、月待ちを行なって、その何年目かの供養に建てたものが多いらしい。

 部落の特定の神社などへ参講する講中もある。殆どの村に普及しているのは古峯神社の代参講で、こぶがはら 講といっている。月山・湯殿山の参拝同行者講もあって、時に湯殿山という供養碑を建てている。これと似たも のが飯豊山という供養碑で、湯殿山の同行者よりはやや若い「十三お山は軽い」などといわれて、十三歳になる と、村に先達があって、前後四、五日くらい、寺の籠堂などで火を分けて水をあび、行生活をし、白衣をつけて 飯豊山に参拝にでかけた。これは一種の青年式か若者加入の階梯のようにも考えられ、近親者はお祝をし、馬を ひいて見送りしたり、出発とお山をかける日には、「追ひごおり」といって行を代りにするというようなことま でして、決しておろそかに取扱わなかった。現在の観光登山などとは全く別個の信仰、荒行の修験、山伏の登山 に類していた。特に飯豊山は下荒井の蓮華寺の管理にゆだねられたことがあるといわれ、飯豊権現といって、神 仏混淆の信仰地であった時代がある。その行者の唱えごとは「ああやに、ああやに、くししきたあと、いいでの みやまのかみのみまえにおろがみ祭る」であったように、覚えている人も多い。

 古くは伊勢参りがやはり同行者講で、帰ってからも伊勢講といって、講中の人々はお互に兄弟分とよんで、年 に一回くらい食物を出しあって、共同飲食をする風が、ごく近年まであった。伊勢参りは各国が封鎖的で、交通 の難渋な時代は、一生一代の大参拝旅行で、その出発の際の送別宴をからこうりといって盛大に行なっていた。


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