北会津村誌 -510/534page

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かどつけに出たものであるという。全文を採録はできなかったが、前文の一部は次のようなものである。

そもそも、こがい国大明神をお祝い申上げまする。いい蚕種をとりあわせ、かんびたくして、とりまの日にあ けて、ひと掃きふた掃き掃きおとし、(小僧が合の手として―ひと掃きはいては千両の蚕、ふた掃きはいては 万両の蚕)、みはき、よはきはきおとし、さてもこの蚕に何にがな進上、桑でも進上と申される。 桑摘み乙女が寄り集り、腰には目籠をつけられて、こいたる桑を目籠に入れて、いんやさんやと運ばれる。こ いた桑をば細かにきざみ、あのこやこのこに、さくりさくりとかけられる。(下略、上簇のところまで歌う)

この他年始万歳、育児繁昌の七福神、やたら万歳などあったが、正月には、かどつけ万歳は、どこの家でも、年 始万歳をやり、所望されて、座敷万歳となり、こがい万歳などをやっていたと語っている。

 年始万歳のはじめは、次のような文句で始まる。

そもそも、門に門松、祝いの松、お家にたつのが五葉の松、七五三の〆繩を、今日やからりと張られて(下略)

この他主に正月にきたものでは、おかめ舞、大黒舞、こむそうが尺八をふいたりしてきた。また早乙女踊りの舞 いこみなども明治初年まではきたことがあるという。

 今もなお村として頼むか、やってくるものに春神楽即ち神楽ぶちがある。午前中くらいは、ひらぶちといって 社壇をかついで、大獅子舞、幣舞、おかめ舞くらいを各戸で行なう。午後は寺の前などで、寄せぶち、或はほん かぐらを、村人が集って見る。神楽七芸といつて、今寄席で行なっている毬つき、皿廻し、ばちうけなどを巧 妙に行なう、半プロ的な一行が、新鶴村の新屋敷や、坂下町・喜多方・若松辺にいた。この神楽太鼓がなると、 永い冬に埋れた雪国にも、春のおとずれたのを、子供心にも感じとれるのである。この他村々を廻った芸能人に は祭文語りがいた。これは後に浪曲師にかわったが、寺堀などにもいた。ちょんがれ、或はさいもんちょんがれ


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