北会津村誌 -509/534page
その位置で手をふり、合掌して踊ることに異色がある。恐らく盆踊りはそれから発達して、右廻りとか左廻りに なっていったのであろうと思われ、その点から、盆踊などの原型をみる感じがする。ひょっとこ、おかめなど のどうけも仮装面で出て踊の間をぬうて歩くから、この点からは明らかに芸能の形態を備えているともみられ る。
この念仏踊りの一部が葬式につく場合があるが、これには踊はつかないで、勤行の一部に太鼓が打たれるのみ である。老人を主としているため、後継者がなくて困っているようである。
寒念仏という真冬の行は、僧侶がやったようで別個のものである。
三、玄如節・万歳その他
玄如節は単なる即興詩のかけあいだけでなく、かけあんどんを吊して、輪になって踊っていたから、民俗芸能 の形態をもっていたとみられる。両堂の不動堂のおひいち、その他で行なわれていたが、これを復興することは 容易でない。踊が終ってからも、籠堂などで、終夜爺さん、婆さんが、即興詩のかけあいをしていた風景など も、明治末頃までは見られたようである。
会津万歳も今失われようとしているが、現在寄席やテレビで見られる新作かけ合い万歳とはちがって、祝い言 葉のはいった、伝統のあるものであった。
これは各家の入口に立って、太夫と小僧が祝詞・祈願を述べるのをかどつけ万歳と呼び、座敷に上って、踊り のはいるのを座敷万歳といっている。中荒井などにも、他の村と組んで、かどつけ万歳をした人があった。
その主なものはこがい万歳で、養蚕の予祝祈願で、正月に雪の降らない中通り地方に、冬の出稼ぎのように、