わたしたちのきょう土河東町-052/104page

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3 学校のうつりかわり
河東町には、第一小学校から第三小学校まで3つの小学校があります。私たちの小学校は、今までどのようにかわってきたのでしょうか。
(1) 河東第一小学校
【むかしの学校(100年ぐらい前)】
1873年(明治6年)4月21日に、六丁原村代官所長屋をかりて対市小学校という名前で学校がスタートしました。「対市」という名前は、今の会津若松市に向かっているという意味であると言われています。対市小学校は、1875年(明治8年)6月には、広田小学校と名前がかわりました。
このときの児童数は、男子104名・女子1名という記ろくが残されています。男子184名・女子177名の子供たちが小学校に通う年れいになっていましたが、家のじじょうがあったり、この当時は女子の教育はあまりじゅうようではないという考えが強かったりしたため、女子は1名だけでした。
【おじいさん・おばあさんが子どものころ(80年〜50年ぐらい前)】
1913年(大正2年)きかん車からの飛び火により、日橋第一尋常小学校が火さいでやけてしまうという悲しいじこがおこりました。この時、地いきの人たちは、少しでも早く学校をたて直そうといっしょうけんめい努力を重ねました。そしてよく年の1月14日に新校しゃが
火事のあとにたてられた校舎
▲火事のあとにたてられた校舎

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